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器用貧乏は赤魔道士になれ

極小ベンチャー企業のひとり管理部門担当者が、多岐に渡る日々の業務のことだったり全然関係ないことだったりを書くブログ

「なぜ自殺してはいけないのか」と「なぜ死にたいと思わないのか」の間にあるもの

死んでみたかった

死んでみたいという衝動にどうしても抗えなかった───

 

彼はそう言って命を絶った。

あれからもう15年くらい経つだろうか。

今でもふとしたときにこの言葉を思い出す。

 

当時はまだブログサービスが世に登場し始めたころで、個人が各々の自己表現をする場としてはHPが主流だった。

彼とは好きな作家が同じだった。ネットサーフィンをしていて、たまたま彼の作ったHPを見つけて交流するようになった。

 

私自身も、自分の好きな作家の著作を紹介するHPを持っていた。

互いのHPにリンクしたBBSに、本の感想、好きな音楽、その日にあったことや感じたこと、考えたことを雑談のように書き込むのがコミュニケーションの方法だった。

この場で出会った人たちとは、リアルな関係にある友人や家族よりも深い話をすることが多かった。

 

ある時期から、彼のBBSへの記述に誤字が多くなった。

何らかの精神疾患的な治療を受けていたらしく、薬の影響でキーボードが打ちにくいと嘆いていたことを憶えている。

アルジャーノンに花束を』で、主人公の書く文章がどんどんつたなくなっていくときに感じた物悲しさ。

彼の重複した送り仮名を見るたびに、あの感情に似たものがわたしの心をよぎった。

 

ある朝、しばらくHPを閉鎖するというメールが彼から届いた。

出掛ける直前にメールに気付いたので、文面に目を通しただけで、返信メールを出さずにPCを閉じた。

ただ、治療に専念して元気になって戻ってきてほしい、と思った。

その日のうちに、彼はこの世からいなくなった。

 

彼は、自分のHPのBBSに遺書のようなものを書き残していた。

それはネット仲間に宛てたものだった。

 

死んでみたかった。

死んでみたいという衝動にどうしても抗えなかった。

 

その言葉に衝撃を受けた。

わたしには、彼がそれまで死にたがっているような素振りをしていた記憶はなかったし、それどころか、自死に魅入られる人が存在することすら思い至らなかった。

 

彼はこうも書いていた。

 

ネットの世界には嫌な奴はひとりもいなかったよ。

 

恨みも妬みも憎しみもない。自分の意志でクモの糸を手放した人間の、ある種の清々しさを感じた。

だから悲しまなくていい。まるでそう言っているようだった。

この言葉が本心かどうかは分からないけれど、彼はそういう気遣いのある人だったから。

みんなより先に行って待ってるよ。あっちでまた会おう。彼の最期の言葉からはそんな気安さすら漂っていた。

 

あの朝メールに返事をしていれば、彼は思いとどまったかもしれない。傲慢にもそう考えた時期もあった。

でも間もなく、そんなことをしても結果は変わらなかっただろうと思うようになった。

彼の死への衝動はそんなに簡単に打ち消せるものではなかっただろう。

辛くてご飯が喉を通らないということが本当にあるのだと、このとき初めて知ったけれど、彼の自死行為がどうしても悪いことだと思えない自分もどこかにいた。

おそらくは、暗いところがないあの遺言のせいだろう。

 

 

 

以前、哲学との出会いについてのエントリーを書いた。

jackofalltradesandmasterofnone.hatenablog.com

 

しかし、わたしが哲学について考えるとき、まず真っ先に思い浮かぶのが、 15年程前に自殺した彼のことと、その数年後に出会ったこの本のことだ。

どうせ死んでしまう・・・・・・私は哲学病 (私は哲学病。)

どうせ死んでしまう・・・・・・私は哲学病 (私は哲学病。)

 

 

この本の冒頭には、こうある。

ぼくには、なぜか「死にたい」と訴える青年が近づいてくる。彼らは美しい。肉体的にも精神的にも。二五〇〇年を飛び越して、ぼくはいまソクラテスの時代に生きているようだ。青年たちは、悩んで悩んで悩み尽くした結果、ぼくのもとの来て、そして「生きること」の意味を問い、そして「なぜ、自殺してはいけないのか」と迫る。

答えは唖然とするくらいない。なぜ自殺してはいけないのか、ぼくにはわからない。人生五〇代の半ばまで来てしまい、ふりかえってみるに、たしかに「生きていてよかったよ」と自信をもって言えることはないのだから。あのとき━━ぼくは若いころ何度か死のうと思った━━死んだとしても、それでよかったのではないかと思うのであり、その後、必死の思いで生きてきてよかったのか、考えれば考えるほどわからなくなるからである。

 

彼も、このような青年のひとりだったのだろうか。

逆に、なぜわたしは「死にたい」と思わないのだろうか。

わたし自身も、この先生きていたってただ年老いていくことが確定しているだけで、何かいいことがあると信じているわけでもないのに。

 

わたしにとっての「哲学」とは、彼の死をとおして、なぜ自分が「死にたい」と思わないのかを知ることなのかもしれない。